コメ先物の試験上場が確実視されているが、山崎種二さんの自伝『そろばん』には戦前の米相場の記述がある。その中から石井定七との仕手戦の描写を抜粋する。当時の市場参加者は当業者と大手の職業的投機家(相場師)であり、小口の個人投機家が主な参加者である戦後の商品先物市場とは趣きの異なるものであった。
現金があれば買い占めは誰でもできるが、受けた現物の処分ができなければ「場で勝っても現物処分で大損」ということになる。
石井定七に売り向かう
だが、相場では翌年には見事に仇をとることが出来た。それは、大相場師石井定七の買い占めに売り向かった相場での勝利である。石井定七は滋賀県の人で、材木商から出発、まず材木の買い占めに成功、折からの欧州戦争、第一次世界大戦を背景に米相場でも買い占めに乗り出して次々に当たりをとった。とくに、大正六年には大阪堂島の米市場で連合軍を結成、大きくもうけた上、綿糸から銅山にまで手を伸ばし、連戦連勝、”横掘将軍”のあだ名をたてまつられていた。彼の邸が大阪、横堀にあったからである。
大正九年に末には経済恐慌と六千三百万石という大豊作によって、売り叩かれた米相場もようやく戻りをみせていた。しかし、六月頃までは大したことはなかった。植え付けは順調だったし、天候にも恵まれていた。ところが、土用に入ってから八月一ぱい雨ばかりである。米作にとって、土用は一番大切な時期だ。この間に三日照れば平年作はまず何とか出来るといわれるぐらいだ。それが全然ダメなのである。大凶作になるかも知れない。
石井定七は再び好機到来とばかりに、大阪、堂島の十四の機関店を通じ、買い占めに入った。七月である。春には二十六、七円だったのに、ぐんぐん値を上げて、秋には四十円台に乗せた。堂島、蛎殻町の両清算市場で買いまくった。その量は堂島で五十万石、東京で三十万石、合計八十万石にも達したと言われた。
そして、十一月限の納会には、五十万石をこえる実米を受けた。一石当たり四十五円余り、その受け代金は実に二千三百万円にもなった。現在の金に直せば二百億円にもなろうか。途方もない話だった。
この時、現物を扱う回米問屋筋は全国の産地から米を手当てしては売り向かった。米の出来は悪かった。買い方の見通しどおり、大正十年の収穫量は五千五百万石と、前年に比べ八百万石も少なかった。ところが、売りものは、どこからともなく集まった。例年、東京市場ではみたこともない、岡山、広島米までも姿をみせた。端境期だろうとおかまいなしに、現物を手当てすることが出来た。
というのは、米相場が高くなると、農家は自家用米まで市場に売りに出してくるためだ。実際の収入がふえるのだから当然でもあった。前の年に、値下がりのためとりあえずしまっておいたものもある。そんなわけで、春には十五、六万石しか深川在庫がなかったのに、端境期の頂点である十月には四十万石以上もの米が集まるという異常現象をみせた。渡し米には十分すぎる量である。売り方の回米問屋筋は清算市場で売りつないであった分を現渡しした。それも十分にサヤをとった上でのことである。蛎殻町の相場が買い占め人気で深川正米市場の相場を上回っていたからだ。
思惑による相場でもうけたのではない。山繁商店本来の委託米売りさばき、サヤトリによるもうけであった。しかし、量が大きかったので、そのもうけは大変なものになった。
その上、石井定七は買い占めた米を自分ではどうにも処分出来ない。結局、その売りさばきの役目はわれわれのところに回ってきた。自分達が一たん売った米をもう一度売ることになった。往復の商売である。こんなうまい話はない。店は創業以来の景気、勤めてから最高の賞与をもらった。
